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プロローグ、そしてカメパオプロジェクトへ
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プロローグ
(2月14日ー2月26日/3月26日-4月2日)

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  1995年2月15日〜。神戸市須磨区鷹取中学校の避難所内のなかよし保育園に入る。そこに来る子どもたちは、3才から中学1年生の30人ほどで、この避難所で生活している子どもたちがほとんどだが、近くに住む子どもたちも数人遊びに来ていた。部屋は、通常の教室の半分ほどでボランティアが数人増えると息苦しいほど狭い。この避難所には子どもの施設が出来たということもあって、人形、ゲーム、ファミコン、絵本、など子供用の物資がたくさん集まって来た。子どもたちは、つぎつぎに来るいろんなおもちゃに目移りし、すぐ飽きていった。さらに、なんでもしてくれる短期間で帰っていく親切なボランティアにも疲れていた。避難所の校庭はテントと車で子どもたちが思いっきり遊べる場所はない。もともと人が住む場所として出来ていない学校は冷たく、どこか病院のような暗い空気が流れていた。

  1995年2月20日〜。神戸市須磨区板宿小学校の避難所に行く。入り口を入るとすぐ、コンクリートの床に段ボールや発砲スチロールを敷き、その上に布団を敷いて避難している人たちで廊下は埋まっていた。鷹取の避難所では見られなかったことだ。避難所によって体制も状況もだいぶ違うようだ。ここでは、避難者の人数をはっきりと掴んでいない。鷹取にあった子どもたちの施設では、こんなことはなかった。校庭の隅にゴザを敷いて子どもたちと遊ぶ場所を確保する。(授業が3時過ぎまであるので、それ以降ならグランドを使用していいとのことだった。)小さな子どもたちはこの間、どこで遊ぶのか?あの廊下にまで溢れた避難所の中で過ごすのか?こんなことを思いながら校庭の隅に持ってきた素材の箱、紙の箱、道具の箱を並べ、折り紙の飛行機と凧をつくることから始める。興味を持った子たちが少しづつ集まってきた。避難所の中で生活している子、校庭に留めた車の中で生活している子、近くに住む子などいろんな状況に居る子どもたちが遊びに来ていた。
  みぞれ混じりの雪の日は、外での活動はかなり厳しい。サッカーで体を温めたりして凌ぐ。後、子どもたちのダンボールの住みかができる。板宿での子どもたちは、少ない素材や道具を使い、オリジナルな凧と紙飛行機の改良を楽しんだ。寒風の中ではあったが、避難所の狭い部屋で過ごすより気分がいい。子どもたちの表情も明るく感じた。

  1995年3月26日〜。板宿の避難所の様子は変わりつつあった。長期の避難生活(希望した仮設住宅にはずれた人たち)、ボランティアの減少、学校の機能回復への動き(グランド内の仮設校舎建設)など、避難所で生活していくにはいい状況のようには思えなかった。この時期、避難所でのトラブルの話も聞いた。シンナーあそびをする子どもたちには、あの凧と飛行機を改良していた子どもたちの顔はなかった。もう、子どもたちの力だけではどうしようもない。子どもとグランドで遊んでいる状況は何も見いだせない。子どもたちに吹く春の風も重苦しく流れているように感じた。
  須磨の海岸はまだ人影も少ない。犬と散歩する老人や3歳ぐらいの女の子と遊ぶ母親などに時々会うくらいだ。海岸には自衛隊のキャンプができ、昼時には昼食を取る隊員のすがたが見えた。須磨水族館は閉鎖され、海浜公園は、各地から集まる瓦礫で埋め尽くされていた。でも、海岸を散歩するのは気分がいい。大人達も子どもたちも、そんな余裕がなくなっていた。子どもたちの広場を続けるだけでは、子どもたちの状況は何も変わらないように思えてきた。私自身、仮設校舎の裏でシンナーを吸う小学生に何の手助けもできず、無力であった。大人達も、子どたちもこの生活にしだいに疲れ、荒んできていた。
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カメパオプロジェクトへ
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モダンな神戸の町はよそ行きの顔?市政は都市計画の中でいくつもの顔をもつ町“神戸”を消しゴムで消し、机上の論で走った。いくつもの顔が神戸の活力、歴史であることを忘れていたのか?震災が起こり、毛布1枚も準備していなかったこと、震災1カ月で、出来上がった防災都市計画案。まだ懲りないのか。これは神戸だけのことか?こんなにモノが溢れ、豊かなように見えた日本で起こったのに、私たちは子どもたちにブルーシートのテントと、使い古したおもちゃを送る事しかできない。ブルーシートでは冷たく、何か寂しい。子どもたちや、老人など自分の力ではどうすることもできないひとたちは、自棄に元気なボランティアとは裏腹に、息の詰まるようなストレスが溜まっていった。

  モンゴルの草原を移動し生活する遊牧民の住居パオは、短時間で組立解体ができ移動できる。部屋は人がほっとするような温かさがある。私たちは物が溢れるような豊かさと便利さの中で、自然のきびしさに耐えながらほっとする居所を創る、そんな生きる知恵を失っていた。子どもたちや老人をそこから守る手だてさえ持っていなかった。今より少しでも良い状況にしたいものだ。今の私たちの知恵を出し合って考えてみよう。子どもたちにブルーシートのテントに変わるものは・・・?こんな素朴な想いから少しづつプロジェクトは始まっていった。


  秋のある日、庭に桐の実の殻がたくさん落ちていた。団子虫に食べられ、葉脈だけのふわっとした殻は美しかった。殻にはいろんな昆虫たちが住み着き、冬になるとてんとう虫や団子虫の寝床になった。葉脈だけの網の目のような殻は、冬の寒さから虫たちを優しく守ってくれた。虫たちが静かに春が来るのを待ち続ける居所だ。

  子どもたちの緊急時の居所は?組立解体、移動が簡単に子どもたちがほっとしていられる居場所。何か新たに生み出していけるような居場所。安心?不安?あったかい感じ?耐久性?・・・・・・。と言った手探り状態の中、モンゴルのパオのイメージが強く、なかなか形が決まらないが、静岡の滝さん、くるみ幼稚園のPTAの方々の協力を得ながら少しづつ煮詰めていった。

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“カメの形をしたパオ”良いではないか!早速、返事を送る。“カメパオ”と言うのはどうだろうか?この後カメパオプロジェクトの名称で子どもシェルターのプロジェクトは、続く。頭は工作室、甲羅は、砂場を持ったコミュニティースペース、足はプライベートスペース、こんな構成で、それぞれが独立した機能を持たせ、分離、合体など場所や用途による活用も考えられた。当初、救命ボートの構造のカメパオのアイディアが浮かぶがCGの段階で予算、試作完成までの期間などの問題から中止。その後、現在の構造で試作づくりが始まる。中原氏のCGを元に足は、黄瀬氏が制作。頭と甲羅はフラーのドーム構造を参考にしながら頭は中原氏、甲羅は滝氏と私の担当で制作するが、全体のサイズ的な問題などで、頭と足とのバランスが悪く、最終的に中原氏の制作した甲羅に決まる。6月、くるみ幼稚園に試作を持ち込み、試作カメパオを子どもたちがどう活用していくか試す。この時期、子どもたちも段ボールのカメパオを園内につくり始めた。



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1996年8月2日〜8月4日 緊急の居所とカメパオ
  静岡県掛川市のくるみ幼稚園で行われた「緊急の居所」-COSY-の中でカメパオver.1.0を公開。
“緊急の居所 -COSY-”をテーマに美術、建築、ジャーナル、情報、音楽の各分野からたくさんの人が参加し、それぞれの方法の展示公開をする。カメパオはいくつかの問題点を未解決のまま公開。初めて子どもたちの前に現れたカメパオは何か展示物のような感じでさえあった。子どもの参加が少なかったこと、使用マニュアルが出来ていないこと、子どもへの対応や呼びかけがあいまいだったこともあって、残念ながら3日間では子どもたちがカメパオを使いこなしていくまでには至らなかった。使いこなされていくカメパオを見てみたい。私たちは、もっとカメパオと子どもとの関係を調査する必要を感じた。また、未解決な要素の改善、今回保留した、いくつかの物を試作していく必要もあった。
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1997年3月16日〜3月28日カメパオver.1.10
  1月、静岡県立美術館の春期自由工房(ワークショップ)でのカメパオ制作の機会を得る。美術館での公開制作に心配がなかったわけではないが、今回はカメパオver.1.0に改良を加えた足と頭で、カメパオ全ての試作にはならないが“あったかい”をテーマに行う。前回確かめられなかったカメパオを子どもたちがどう活用していくか?天候の変化と構造は?設置場所の変化によるカメパオは?夜のカメパオは?など、状況の変化に対応したカメパオと子どもの様子をリサーチしながらの改造や新たなアイテムづくりをしていく。欅の木が立つカメパオの頭での子どもたち(大人たちもであるが)の関わりは興味深かった。日に日に使い込まれていくカメパオは子どもたちのカメパオになっていった。この12日間で、緊急時のカメパオの可能性と課題が少し見えてきた気がした。(12日間の詳しい模様はカメパオ日記、E-Mail交信をご覧下さい。)
Last Updated: 2004.02.17
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